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三光神社 由緒・略歴

当神社は大阪城東南の丘陵(上町台)真田山に鎮座し昔は姫山神社(大昔の姫の松原の遺称)と称したが、全国的には真田山の三光の名称の方がよく知られ今では三光神社となった。
  創立は仁徳天皇から三代後人皇十八代反正天皇の御宇と言い伝えられ創建以後神職として奉仕された武内宿弥の末裔武川氏(八十六代)にして今に至ると言う。
 当神社は古来より日本全国で唯一の中風除の神として広く知られ毎年恒例の神事として六月一日を祈願の初日と定め七日間往古より今に至るまで変わることなくとり行われ全国各地からの参拝者が絶えない。

各社殿を初め建物一切と氏子全域を終戦の年の六月一日に焼失、復興は到底不可能とされていたが戦後氏子崇敬者の総意により復興に尽力し第一期に本殿、第二期に社務所、第三期に拝殿と正面大鳥居、第四期に各末社と北参道大鳥居を完成す。

ご祭神 天照大神、月読尊、素戔鳴尊
末 社 仁徳天皇社 武内宿弥社 野見宿弥社 主守稲荷社
末社祭記 仁徳天皇社
餌差町円珠庵に仁徳天皇の社あり当時西の方地形低く真田山に遷し奉る。
武内宿弥社
武内宿弥の末裔たる武川氏が三光宮の創建以後神職として奉仕し長寿の神として祭る。宿弥 は景行、成務、仲衷、応神仁徳の五朝に歴任し二百四十四年も官に在り我が国最初の大臣と  なり日本で一番長寿された神で七福神の寿老神として祭られ戦前は浪速七福神巡りのバスを  運転した程です。
野見宿弥社
安政六年七月天満砂原屋敷の相撲場に勧請しその後同相撲場の難波新地六番町に移ると共に移され同所にあったのを明治十九年三月二日当社境内に移転す。宿弥は垂仁天皇の御 代に当麻邑に蹶速という大力で知られた力士と力兢べをし一撃で蹶速の脇骨と腰骨を折り天  下第一の力士となった(角力の神)当時高貴な方がなくなるとその近臣も共に埋める風習があ  ったのを土人形を造り人間の代わりにすることを考えた(埴輪の起こり)
主守稲荷社
加賀宰相候の陣屋が此辺にあり宰相山と言う此丘は狐の穴が多く本社の側に稲荷社を祭る(五穀をはじめすべての食物を司る神)